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鈴木その子の生涯

 

■ 鈴木その子の生涯

株式会社SONOKOを創業した料理・美容研究家、鈴木その子(本名 鈴木荘能子)。
人々の美と健康のために私財を投じ、自らの信念のもと食で悩める人々に救いの手をさしのべ、燃焼し尽くした68年の生涯をご紹介します。

Childhood 1. 幼少期 料理研究家の萌芽

「2歳になって歩き出した私が、最初にやったこと。
 それは、大きな鍋と箸を持って料理を作ることだった」
鈴木その子(旧姓 山中)は、1932(昭和7)年1月20日、幅広く事業を営む父・山中力松と、母・末野の三番目の子として、東京目黒区に生まれました。
子供たち一人ひとりにお手伝いがつくような裕福な家庭環境でした。お手伝いに背負われながら調理の様子を見ていたせいかもしれませんが、2歳になるとおままごとのかわりに実際に料理を始め、「4、5歳になった頃は、大抵のものが作れるようになっていた」といいます。
自宅に来客があれば、何が好きかを聞いてまわり、好みに合う料理を作ってもてなすのが楽しみでした。さまざまな客の好みを聞くうちに、太っている人、やせている人の食の好みを自然に掴んでいたようです。

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School Days 2. 学生時代 なぜ? どうして? の追究

「私が価値を認めるのは創造・オリジナルである」
その子の父・力松は、明治生まれの男性としては珍しく進取の気性に富み、頭脳明晰、お洒落でこだわりが強く、自分の美学を確立している人物でした。薬科大を出ていたため、薬に詳しく、探究心も旺盛でした。料理も上手で、例えば発酵の状態による漬物の味の違いを、試して教えてくれることもありました。そんな影響からか、その子自身も、松葉を発酵させて酒を造ろうとしたり、ニンジンから砂糖をつくろうとしたり。探究心はとどまるところを知りませんでした。
やがて彼女は、学習院女子短期大学の食品化学科に入学。「栄養学概論」や「生理学」の授業に興味を持ちます。しかしすぐに、「食品のカロリー計算や栄養の分析など、世にまかり通っている栄養学とは、ただの分析に過ぎないのだということに気が付いた」といっています。その子が求めている本質は、そこにはありませんでした。その子が価値を認めるのは、あくまでも新しいものを生み出す創造やオリジナリティだったのです。
持って産まれた気質として、学校の先生の言うことや、一般に常識とされていることを鵜呑みにしない。常に「これは何だろう」と問いかけるのが、その子という人でした。 学生時代の写真

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Age 20 3. 専業主婦に 面倒見がいいアイデアウーマン

「自分の未来に自信など持てなかった。
 後年のように仕事ができるようになるとは一度も思ったことがなかった」
何事も自分で学び、自分で行う。芯の強さと自立心を持ったその子でしたが、学生時代の彼女は、社会に出て仕事をしようとは思いませんでした。明治生まれの母・末野も、当然のように「女の子はお嫁に行くのが一番幸せ」という考えの持ち主でした。ですから、親のすすめで事業家の鈴木康郎と見合いをし、短大卒業と同時に結婚。以後、夫との間に一男一女をもうけ、主婦業に専念します。
新婚生活では、持ち前のアイデアを発揮して、夫を驚かせることもたびたびでした。行儀見習いとして預かった住み込みのお手伝いさん達のことも、本気で可愛がりました。行儀作法から学問まで教え込み、良い縁談を見つけて、嫁入り道具まで揃えてやるなど、面倒見の良さを発揮しました。
そうした暮らしに転機が訪れるのは42歳。実母に続いて、実父を亡くしたことがきっかけでした。 専業主婦時代の写真

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Age 42 4. 事業家への転身 レストラン「トキノ」をオープン

「父からもらった手先の器用さと、良い物・美しい物を見つけるセンス、
 そして相続した遺産が、私に“商売を始めてみよう”と思わせてくれた」
父から引き継いだ能力と遺産によって、起業の可能性が拓けたその子。仕事をするなら、レストラン以外ありません。子供時代から料理が大好き、人を喜ばせるのが大好きなその子が一番幸せな瞬間は、自分の作ったものを人が食べて「美味しい!」と目を輝かせる時だからです。
その子は確信します。「これは私の進むべき道で、これこそ私の天職なのだ。今までの人生はこの日のための準備期間で、これから私の本当の人生が始まるのかもしれない」。
意を決すると、1974(昭和49)年7月、銀座6丁目に新日本料理「トキノ」をオープン。店の評判は上々でした。 レストランオープン時の写真

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Age 44 5. 愛息の死 悲しみを使命感に変えて

「私はレストラン・オーナーより、もっと大きな使命を果たすために、
 この世に生を受けたのではないだろうか?
 食の理論を人々に伝えていくことだ」
初期の「トキノ」は、美味しい料理を提供する一般的なレストラン。健康志向、ダイエット志向の店ではありません。頭の中に考えはあったのですが、踏ん切りがつかない状態でした。そんな折、突然の悲劇が彼女を襲います。
1976(昭和51)年5月、最愛の息子・康之の突然の死。極端な食べないダイエットの結果、体力が著しく落ちての事故でした。奇しくも実母・末野は、美食による肥満から生活習慣病(動脈硬化)となり、没していました。誤った食事が原因で、最愛の人を失ってしまった。自分が勇気をふるい起こしていれば…。激しい後悔が、その子を突き動かしました。幼い頃から料理と健康の関係を無意識に考え続け、母の闘病中も研究を進めていた「鈴木式(現SONOKO式)食事療法」を完成させて、一人でも多くの人に知ってもらい、生命を救っていこう。「食の理論」の伝道者になろう。息子の死を乗り越えたその子は、新たな一歩を踏み出します。

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Age 48 6. 著書出版 『やせたい人は食べなさい』

「世の中にただ一人立ち向かう時、予想以上の敵があらわれてきた。
 しかし、萎縮していてはいけない。怖がっていてはいけない。
 実績で黙らせるしかない」
書籍『やせたい人は食べなさい』『奇跡のダイエット』の写真
食事によって健康的に病気予防・肥満防止が図れるように――。悲しみの淵から立ち上がったその子は、料理と健康の関係についての研究に没頭します。できるだけ農薬や添加物のない食材を選び、下処理で危険な因子を抜き取って、添加物の原型でもある油脂も一切使わない。美味しくて、安全で、正しい体重、理想のプロポーションがつくれるメニューを次々に開発すると、康之の死から半年後、レストラン「トキノ」の看板をリニューアルしました。 店ではお客様にダイエットの指導をし、効果を聞きながら、一心不乱に働きました。すると、みるみるやせていくお客様が続出。効果に確信を得たその子は、永年独自で考案した鈴木式の食養理論と調理方法を出版します。その著書『やせたい人は食べなさい』。1980(昭和55)年に発行、瞬く間にベストセラーとなりました。 しかし、出る杭は打たれるもの。その子による新たな食の提案は、専門家からバッシングを受けることになったのです。当時はまだ、“吐くダイエット”を容認する風潮もありました。ですが、「それを阻止できるのは自分しかいない」。委縮せず、怖がらず、実績で証明しようと心に決めて、より深い研究成果とお客様の声を、第二、第三、第四の著書に盛り込んでいきました。

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Age 53 7. 一筋に 事業にすべてを賭ける

「身を削ろうと、命を削ろうと、
 私のすべてを投げ打ってでも会社のために生きよう」
夫に迷惑をかけないことを条件に仕事を始めていたその子は、1980年代、夫との約束を守りつつ、ますます精力的に働きました。1982(昭和57)年には野菜菓子に関する製法特許を取得し、1985(昭和60)年には通信販売も開始。早朝から深夜まで、弟子達と働きづめの日々を送りました。
寝る間を惜しんで付いてきてくれる弟子達に、将来は必ず楽をさせてあげたい。そのために、自分のすべてを投げ打ってでも会社のために生きよう。その子は後の人生を、1年365日、事業家として生きています。

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Age 58 8. 次なるテーマ 化粧品の扉を開く

「人間本来の健康で美しい状態を生み出すためにはどうすればよいのか」
人々の健康を見つめ、間違いだらけのダイエットに歯止めをかけようと、奮闘する毎日。業務を拡げる中で、人々の化粧品に対する無知と、世の中に溢れるスキンケアやヘアケアの危険性に対する問題意識が高まっていきました。
その子はもともと美に対する関心が高く、手作りで化粧品をつくるほどの人だったため、自分の思う理想の化粧品づくりを目指そうと、満を持して立ち上がりました。
そして、「自ら生まれ変わろうと代謝を繰り替えしている肌が、欲している成分は何か」。「人間本来の美しく健康な状態を生み出すには、どうすればいいのか」。一つひとつ難題をクリアし、1990(平成2)年にはスキンケアライン「トキノコスメ」を、1999(平成11年)には「荘シリーズ」を世に送り出しました。
他社の研究成果に頼ることなく、オリジナルな製品を――。化粧品開発に際しても、その子のスタンスは一貫していました。 化粧品「荘」の写真

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Age 66 9. テレビ出演 「美白の女王」と呼ばれて

「驚いたのは、番組で会うガングロの女の子達の肌の汚さだった。
 ここにも私の新しい使命があると思った」
1998(平成10)年、その子は、「未来ナース」というテレビ番組にレギュラー出演。渋谷などにいたガングロ(顔黒)の女の子達を、お姫様のように白く変身させるコーナーで高い知名度を誇るようになりました。その子の顔の白さを強調するライティングは、「鈴木その子=白肌」というイメージを広く定着させることにもなりました。
しかし、驚いたのは、番組で出会う女の子達の肌の汚さ。アトピーだったり、シミだらけだったり、キメがとても粗かったり…。かつて間違ったダイエットが蔓延していたように、誤った美白法や美容法を鵜呑みにした結果ではないだろうか。もっと自分を大切にしてほしい。「ここにも自分の使命がある」と感じた彼女は、肌をいじめず内側から美肌をつくる「美容理論」の普及に力を注いでいきました。 テレビ出演時の写真

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Age 68 10. 最後のテーマ スリムに見えるファッション

「鈴木式食事療法でやせたのに、
 わざわざ太って見える服を着るのはもったいない」
パリコレの写真
ダイエットや健康、化粧などに取り組んできたその子は、いつしか自分の本業を「美しく健康に生きるためのすべて」と思い定めるようになっていました。
最後に残されたテーマは、「衣」。やせている人はより素敵に、太っている人もやせたように見えるファッションに挑み、2000(平成12)年秋のパリコレへ出品します。すると、そのデザインが、注目すべき4ブランドのひとつを意味する“エヴェヌマン”の称号を獲得。また、パリ市に貢献した功績を称えられ、“ヴェルメイユ金メダル”の栄誉を受けたのです。
もちろんこの時、ファッション事業の実現は、道なかば。食の大切さ、美肌の大切さも、さらに訴えていく必要がある。その子には、尽きることのない夢がありました。

***


しかし、彼女のハードワークは長年にわたっており、前年に腸閉塞を患ってからは、体調を崩し気味でした。
2000年12月5日、風邪をこじらせて入院していた鈴木その子は、肺炎で68年の生涯に幕を閉じます。
ですが、彼女の打ち立てた食の理論の普遍性は色あせることなく、むしろ混迷する時代の食の救世主として今も輝きを保っています。

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